2015年12月23日水曜日

上武佐ハリストス正教会へ

今日は、一日晴れておりました。
最低気温は空港での-14.0℃で「1月上旬並」「今季最低」、最高気温は同所での0.4で「12月下旬並」。

本日は、
上武佐ハリストス正教会が「クリスマス・キャンドル・ナイト」と題して、日本最初の女性聖像画家山下りんが描いた聖像画(イコン)などが一般公開されたので見に行って来ました!!(^O^)

 
 

↓『十二大祭図』(キリストと聖母マリアの生涯を描いた12枚一組の作品。)





 
 
↓「聖母子像」

↓「ハリスト(キリスト)像」

 
↓上の2枚の聖画は、写真の赤丸印に位置する。


元々、聖像画は大正8年まで根室のハリストス正教会の聖堂に祭られていましたが、
閉鎖後に、上武佐へ移転されたそうです。
 
山下りん について
安政4(1857)年5月、茨城県笠間市で士族の長女として誕生。
その後、神田駿河台のハリストス正教会のニコライ神父の導きで入信し、単身でロシアの首都ペテルブルクで2年余り聖画の修行を行い、帰国後、全国のハリストス正教会で聖画を描き続け昭和14年1月81歳で死去した。
作品は、主として関東、東北、北海道に多く存在されており、上武佐には「十二代祭図」など13点が収蔵されている。
 

戦後、信者が色丹島から引き揚げた際に持ち帰ったという
↓右手首を失ったキリスト像

↓キリスト像は、写真の赤丸印に位置する。
 
 
なお、『上武佐ハリストス正教会開教70周年史』によれば、色丹島の「教会は斜古丹村中央に位置している所に在り、当時としては役場・学校に次いでトタン屋根の大きな教会」であったという。「明治17年千島列島が日本領土と成った時、その当時北千島のシュムシュ及びパラムシリ島の土着民であった百名近いクリル民族の人たちが日本に帰属し全員色丹島に移住され、彼らの宗教であるロシア正教をそのまま斜古丹に持ち込んだもの」だそうです。
 
貴重な資料を見せて頂きました。
関係者のみなさま、ありがとうございました。<m(__)m>
 
本日のブログは、学芸員のMでした。
 
 

 
 

2015年12月22日火曜日

中標津空港にて特別展開催!

早朝は積雪しておりましたが、気温が上がり雪どけが進んでました。
最低気温は空港での-4.8℃で「11月中旬並」、最高気温は中標津、空港での0.6℃で「12月中旬並」。

午前中は、
中標津空港にて、特別展『根室管内に残る戦争遺跡』の設営をしておりました。






郷土館は、来年1月8日(金)まで、休館ですが、
中標津空港では、『根室管内に残る戦争遺跡』のパネル展を来年1月5日(火)まで、開催しておりますので、ぜひこの機会に、ご覧になって頂ければと思います。
よろしくお願いします!!<m(__)m>

午後からは、昨日に引き続き、郷土資料の整理作業をしておりました。

因みに、
先日、空港周辺に残る旧海軍飛行場の誘導路と掩体壕を撮影
したのですが、雪のお蔭で誘導路をはっきりと確認することができました!


 
↓白い雪のところが、誘導路
 
 
↓誘導路のコンクリート
 
↓近くには、コンクリートの破片が!!

わりと大きめの砂利が含まれています。



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2015年12月21日月曜日

昭和55年度の入館者名簿に著名人の名前が!?

今日は、一日晴れておりました。
最低気温は空港での-7.7℃で「11月下旬並」、最高気温は上標津での2.0℃。

本日から、郷土館は来年1月8日(金)まで年末年始に入ります。
本年も、多くの方々に来館して頂き、ありがとうございました。
来年もどうぞよろしくお願いします。<m(__)m>

さて、
↓『中標津町郷土館だより 第27号』を発行いたしました!!

↓郷土館のWEBサイトから、見ることできます。

話しは、変わりますが、

先週は、
粟野武夫先生から、これまでにご自身が撮影してきた根室地方の植物などの自然関係の写真のスライドを一括寄贈して頂きました。また、そのスライドの中身についてご説明して頂き、記録する作業をしておりました。

↓植物のスライド写真
今日は、午後から郷土資料の整理作業をしていましたら…

↓たまたま、昭和55年度の郷土館入館者名簿を目に入り、
中身を確認しましたら著名人の名前を発見したました!!


(松山 千春)

果たして、本人なのでしょうか?

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2015年12月12日土曜日

アメリカ海兵隊中標津空港にて搭乗!!

一日、晴れておりました。
最低気温は上標津での-2.3℃、最高気温は空港での2.9℃で「12月上旬並」。

本日、陸上自衛隊矢臼別演習場で3日まで実弾射撃演習訓練を行っていた沖縄駐留アメリカ海兵隊が、中標津空港にて搭乗し、沖縄へ向かいました!!
なお、空港関係者によれば、その日程時間は極秘でしたが、たまたま、郷土館に用事があり、その帰路、阿寒バス4台とすれ違いました。その車内にいたのがアメリカ海兵隊であることから、中標津空港に向かいました!!

↓その一端をご紹介いたします!!
 
↓『ナショナル・エアラインズ』



↓事情通によれば、
阿寒バスは旧空港から入ったようです。
現に、旧空港のゲートには、いつもはいない監視と思われる車3台がありました。
 

 
↓離陸するのを待っていたら、辺りはすっかり暗くなってしまいました…

 
と、言うのも空港関係者によれば、中々中標津空港で発着する
機体ではないというので、記録撮影のため粘りました…(-_-;)

 
 
↓まさかの持久戦となり、三脚がないのでブレブレです…

それに、機体番号を確認することができなかったです…。(-.-)
 
↓離陸!!

 
貴重なものを見せて頂きました!!
 
 
北海道新聞『どうしんWEB』
 
【別海、根室】陸上自衛隊矢臼別演習場(根室管内別海町など3町)で3日まで実弾射撃訓練を行っていた沖縄駐留米海兵隊は11日、撤収を始めた。装備品を根室・花咲港で貨物船に積み、同日午後沖縄へ向かった。12日以降、残る海兵隊員も帰途につくとみられる。
 
続きは、↓
 
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2015年12月8日火曜日

太平洋戦争開戦の日

今日の天気は、晴れ時々曇り。
最低気温は空港での-6.9℃で「11月下旬並」、最高気温は中標津での2.6℃で「12月上旬並」。

午前中は、寄贈資料の整理作業やラジオの原稿作成、
午後からは、埋蔵文化財保護に係る事務、寄贈資料の整理作業などをしておりました。

~今日は、何の日?~

74年前、
昭和16(1941)年12月8日未明〔日本時間〕、日本海軍の戦闘機がハワイ真珠湾に停泊している米国の戦艦「アリゾナ」などを爆撃し、四隻撃沈。その他、湾周辺の飛行場を破壊し、米兵約3000人が死傷。これにより、対米英戦(太平洋戦争)がはじまった。

真珠湾攻撃を早朝のラジオの臨時ニュースや新聞の号外によって知った国民から「万歳!万歳!」の声が上がるなど歓喜に沸いたという。

終戦の日は話題になることがあっても、開戦の日は、話題になることはあまりないように感じられます。西暦は異なりますがどちらかと言えば、ジョンレノンの命日であることの方が、メディアなどで取り上げられることが多いように思います。非常に重要な歴史的出来事ではあるのですが…(-.-)



郷土館では、先の大戦時に根室管内に構築された戦争遺跡についての特別展を開催しておりますので、この機会にご覧いただければと思います。よろしくお願いします。<m(__)m>



~おまけ~
以前、寄贈受けた資料から…

雑誌の付録についていた美人画が、美かったのでご紹介します。

↓舞踊『娘道成寺』の一場面
 
まるで、玉三郎さんのようです!
 
雑誌:『キング』第9巻第1号(昭和7年12月3日発行)
作者:鏑木清方
 
 
↓こちらは、伊藤深水の作と思われる。


↓雑誌『主婦之友』8月号付録第16巻第8号
『涼 風』 作:中村 大三郎
 
 
↓雑誌『主婦之友』8月号付録第16巻第8号

『愛犬』 作:細木原 青起 

2015年12月4日金曜日

明日から特別巡回展『根室管内に残る戦争遺跡』郷土館にて開催!!

今日の天気は、晴れ→曇り→雪→雲り。
最低気温は空港での-3.7℃で「11月中旬並」、最高気温は中標津での4.8℃。

午前中は、毎年恒例のタンチョウ一斉調査に従事しておりました。
自分が担当した場所では、計9羽(うち幼鳥1羽)確認することができました!
因みに、Y学芸員が担当した調査区では、計19羽を確認し、内1羽がリング付でした。

↓足環の識別から、9歳であることが判明しました。

(撮影:Y学芸員)
 
すくすくと成長してくれるといいですね!


さて、午後からは、
明日から開催します特別巡回展『根室管内に残る戦争遺跡』の設営をしておりました。



 
館内は、非常に寒いのでみんなで震えながら作業をしておりました…(-_-)



非常に寒いので寒さ対策をしてお越し頂ければと思います。
どうぞ、よろしくお願いします。<m(__)m>

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2015年12月2日水曜日

鉄道跡をめぐる〔中標津町郷土館〕

一日曇り時々晴れ。
最低気温は上標津での-7.7℃、最高気温は空港での0.4℃で「12月下旬並」。

午前中は、今週末から開催します特別巡回展『根室管内に残る戦争遺跡』の準備や寄贈受け入れの事務、現地調査などをしておりました。

さて、
先週の日曜日は、鉄道跡を散策しましたのでその一端をご紹介します。

↓春夏は、草木に覆われ、埋もれていた鉄道跡が、
今時期になるとはっきりと見えるので、車で通るたびに気になっていました。



 
 
↓鉄道跡は今やシカ道になっていました。
 
お蔭で、余計な枝は折れて通れやすくなっていました。
 
↓ある意味、現在の保線作業員?

 
↓このような旧国鉄標津線の遺物がまだ残っていました!
 

どのように使用されていたのかは不明です。(-_-;)
 
↓道路を隔てて鉄道跡が分断されています。
 


 
↓今回、散策した鉄道跡は、
昭和38年の中標津市街地図で言うと赤線部分です。

その後は、歴史的価値、美術的価値ということではなく、単純に昭和40年代以降の建造物がどれくらい街中にあるのか散策したりしていました。意外と、そうした建造物があるのだと思いました。
テロ騒動で騒がしい中でもあり、街中をキョロキョロ歩くのはこころもとないです…(-_-;)

本日のブログは、学芸員のMでした。