「文化財保存活用地域計画」を始めたきっかけは、本町の国登録有形文化財であり、町の歴史文化をとりわけ物語る旧北海道農事試験場根室支場の保存改修が喫緊の課題としてありました。また、郷土館は、昭和46年に開館してから50年が経過し、町民の皆さんはじめ「いつ新しくなるの?」と、待ち焦がれていた。
と、言うこともあり、小樽市では、ちょうど計画の前身である「歴史文化基本構想」策定を記念したフォーラムの開催があり、聞きにいき、文化庁の岡本公秀調査官や江差町教育委員会の学芸員さん、小樽市教育委員会さん、観光協会さんでの取り組みや、未指定を含めた文化財に光を当て、保存・活用を図ることに衝撃と感銘を受けました。
でも、私の心の中にあったのは、それだけではなくある人物のことが連想されました。
江戸時代の終わりごろ、松江藩で藩主を務められていた「松平不昧」公です。
この方は、大名茶人としても著名で、千利休を尊崇し、名器とされた茶器を散逸、毀損から守るためコレクションし、分類して台帳を作り、スケッチをして記録して残された。
このことから文化財保護の先駆けとも称された。
また、不昧公は…
当時、一両の金も貸さないと言われるほど藩の財政が逼迫していたこともあり、
名器とされた茶器の写を陶工や漆芸、木工職人にたちに貸し与えて、藩として産業を起こし、販路流通を拡大し、和菓子では技術を磨き上げ、京都と金沢に並ぶお菓子どころとして著名になるなど「茶の湯」でブランディングづくり(地域振興)を戦略的に行っていった。
そして、松江と言えば「和菓子どころ」、「茶の湯」のイメージが作られていった。
さらに、不昧公は、工芸品や和菓子を流通させながら、「茶の湯」を通じて伝えたかった、
「正しく茶の湯を皆行えば天下が治まる」と言う考え方を広めていった。
まさに、地域グルみでまちづくりを実践していった、先駆けだったとも思いますね。
それは、中標津町にもリンクするのではないかと思いました。
縄文・アイヌ文化等を基層としながらも、凡そ100年の時を経て、酪農文化が育まれ、
たくさんの食文化が作られ、生活文化も彩られていった。
文化と産業が密接に関わりながら、町の固有性、魅力づくりが作られていくことから、
私は、文化財を地域資源と見なすことに抵抗はなかったのが正直なところです。
それは、既に、不昧公が実践した藩政改革の実践に通じるものがあったと思うからで、文化=産業・観光=経済の好循環が生み出されることで、文化財の修理費用、活動費の財源を確保でき、結果的に先人たちの記憶や歴史が受け継がれていくのではと短絡的かもしれないが、そう考えたから計画を作ろうと思ったし、可能性を感じました。
文化財を活用することで、町の固有性を高める、「我がまちは、酪農の町である」など
戦略的に発信をしていくことにつながると思います。
(開陽台上空写真 *中標津町)
これから、思うのは、千利休のように淡々と文化的なことを実践していきたい。
できることから淡々と。
利休は茶の湯とは、「お茶をただ立てるだけのことです」と問いたように、あれやこれや考えずに淡々と町の文化財の保存・活用について、町民の皆さんと、専門家の皆さん、企業の皆さんと手を携えながらできることからやっていきたい。ただただ、それだけです。
長々と書き連ねてしまいました。
松平不昧公を研究されている方に、誤りがございましたら大変申し訳ございません。
ここで、筆を下ろします。
お許しください。
おかげさまで、もやもやしていたことが整理されました。
(M学芸員)
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