2017年10月15日日曜日

ナカシベツ大学特別企画『”中シベツ”のルーツをたどる』

今日の天気は晴れ。
最低気温空港での0.9℃で「10月下旬並」、最高気温は同所での15.1℃で「10月中旬並」。


本日は、
(一財)中標津町文化スポーツ振興財団が主催で『第11期 ナカシベツ大学特別企画『”中シベツ”のルーツをたどる』をテーマに町の歴史に関する4つの謎を出題して、各地点を廻りながらひもをといていきました。
コーディネーターには、NPO法人伝成館まちづくり協議会の飯島 実 氏、特別ゲストに町の歴史的場面を経験され伝成館の建物の保存運動にも関わってこられた佐々木信重氏と一緒にガイド役として廻りました。

4つの謎の一つをご紹介します。
一つは、「”中標津”の地名をはじめて公的に使用した施設は何か?」と言うことでした。

答えは、大正2年に俵橋地区に創建された神社を地域住民が「中標津神社」と称していたと記録されており、これが現時点で追える最初の公的な施設での使用かと考えられます。

紙資料(史料)では、明治34年の原野区画図に記されたものが今のところ最も古いです。

神社の場所は、聞き取りによると初代は川沿いで二代目は現在の白樺斎場の周辺の段丘上にあったそうです。(位置図の赤丸地点)
当時は石段のある神社だったのですが、残念ながら現在はそのような痕跡がみられないです。

 
↓俵橋神社二代目の位置図

 
 
大正6年に「俵橋」と地名が付けられた後、神社の名前も「俵橋神社」に改名されました。
 

↓神社の扁額
扁額は俵橋の謂われとなった北海道庁長官俵孫一氏の揮毫によるもの。
 
それとは、別に
↓俵橋地区には天照大神をはじめ神様の名前が5柱記された5角柱が建立されています。
 
これがいつなんのために建立されたかは不明。
当初は神社跡との関わりが考えられていたが、今のところ俵橋神社と関係していたような資料は残念ながらみつからないです。
もし、ブログをご覧の方でご存知の方がいらっしゃいましたら教え頂きたいです。
よろしくお願いします!<m(__)m>
それにしても、謎。
 
また、中標津原野ではじめて牧場経営され、移住者から頼りにされていた芦沢勇吉氏の足跡をたどりました。
これについて、佐々木信重さんから貴重なお話たくさんして頂きました。

↓今回の配布資料は少なくしようということでしたがついつい多くなってしまいました…。

結構かさばったかもしれないですね。
 
 
↓最後に、伝成館にて中標津原野区画図の縦のライン、基線の零線はどこかについて
飯島さんにお話しして頂き、今回の講座をふりかえりました。

 
 
(各所まわる移動中も、飯島さんから様々な視点で多くのことをお話して頂きました!(^-^))
 
また、最後に参加されたみなさん、スタッフ陣とあったかいコーヒーを頂きながら座席を囲んだのがまるで松下村塾のようで自分的には「いいなぁ~」と思いました。
予定どおりの時間刻みでしたが、もう少し参加者のみなさんとお話しが出来る時間をつくれればよかったかもしれないと思いました。
 
 
参加されたみなさん、関係者のみなさん、お疲れさまでした!
そして、ありがとうございました!!<m(__)m>
 
 
本日のブログは、学芸員のMでした。
 
 
 
 
 
 
 
 


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